私の専門は日本経済史で、経済政策を中心に明治期~昭和戦前期の日本経済の歴史を研究しています。歴史というと暗記を連想する人が多いと思いますが、歴史的事件が起きた年号を覚えることが「歴史を学ぶ」ことではありません。歴史的事件はその事件が起きた「時代」の影響を受けますので、その「時代」の特徴を把握して全体像を解明することが「歴史を学ぶ」ということです。ここでは、「超弩級」という言葉を手掛かりとして、日露戦争後の日本について考えてみましょう。
「超弩級」を辞書で調べると、「同類のものよりはるかに強大」「前代未聞」という意味で用いられていますが、もともとは英国の戦艦ドレッドノートを超える規模の軍艦のことでした。ドレッドノートは日露戦争終結の翌年・1906年に完成しましたが、蒸気タービン機関の採用などで従来よりも高速・重装備で圧倒的に強力な戦艦であり、三笠など日露戦争で活躍した戦艦は時代遅れになりました。そのため日露戦争後の各国の海軍は、「超弩級」戦艦の建造競争に突入し、日本も例外ではなかったのです。ただ当時の日本は繊維工業を中心に資本主義化が進行していたものの、重化学工業は未成熟であり、軍艦建造でもドレッドノート以前の戦艦なら国産化が可能になっていましたが、最新鋭の「超弩級」戦艦の建造は技術的に困難でした。そこで、英国に戦艦金剛を発注して技術を導入することで国産化を進めることになりましたが、「超弩級」戦艦の艦隊を整備する予算の確保は難航しました。
日露戦後の日本は、欧米列強の一角であるロシアを破ったことで世界の「一等国」になったと考え、欧米列強並の軍事力・経済力の構築を目指して「戦後経営」と呼ばれる政策を推進しました。しかし、日露戦争では賠償金が得られず、戦費調達のために発行した巨額の外債の償還が必要になるなかで、欧米と比較して経済発展が遅れている日本では、軍拡や産業育成政策のための財源確保は困難であり、大正初期には各官庁の予算獲得競争が政治的混乱を招きました。確かに「超弩級」戦艦という質的な改良が必要な海軍軍拡は、師団増設という量的拡大を求める陸軍軍拡よりは優位にたっていました。しかし、そのことに不満を持つ陸軍が政友会を基盤とする第二次西園寺内閣を倒したことをきっかけに大正政変が発生する一方、金剛発注などをめぐる海軍の汚職事件(ジーメンス事件)が発覚して、海軍軍人を首班とする第一次山本内閣が退陣を余儀なくされたのです。
このように国際的な軍事情勢の変化から必要になった「超弩級」戦艦の艦隊整備さえ難航した背景には、世界の「一等国」を目指しつつも経済力が伴わないという日露戦争後の日本の事情があったのです。