Professors' Column
教員コラム

14.小川文昭(経済学科): 感情のない言葉

経済学科教授 小川 文昭

 一昨年の夏、父が脳梗塞を起こして半身麻痺になり、話をすることができなくなった。生活能力の一部は残っていて、問いかけにしぐさで答えたりすることはできたが、生活は全介護となった。しかしそれでも、見舞いに来た家族を見ると「おう」と声をあげたり、もう正月ですよとなどと言われると「へえ~」と返事をしたりすることがあった。
 「おう」も「へえ」も「感動詞」に分類される語である。日本語のすべての語を「詞」と「辭」に二大別して文法を論じた国語学者の時枝誠記は、感動詞を「辭」の中に入れながらその意味内容について「辭としては、云はば例外的である」と述べている。脳梗塞の後遺症で言葉が話せなくなっているのに、一部の感動詞だけは発することができたというのは、時枝のいう感動詞の例外性を実証した事例の一つに当るかもしれない。
 一般的に言って、実際に話された個々の言葉は、感動詞に限らず、話し手自身がそうしようとするかどうかに関わらず、話し手のその時の感情が自動的に声に映し出される。時にはそれが、言葉の辞書的な意味よりも大きな意味を持つことがある。
 支離滅裂なことを言っているのに話し手の真剣さがはっきり伝わってきたり、乱暴な言葉遣いなのに言葉を掛けられて心温まる思いをしたり、丁寧な言葉遣いなのに失礼で腹が立ったりすることがあるのが、われわれの実際の経験である。
 このことを考えると、学校での外国語学習がなぜ難しいかという理由の一端が分るように思う。
 学校で外国語を学ぶ時は、「A:こんにちは。B:こんにちは」「A:忙しいですか?B:それほど忙しくはありません。」のような文例を材料にして、現実の感情を抜きにした状態で言葉をおぼえていくことになる。感情抜きというのは、現実の言葉の自然なあり方とは異質で不自然なことである。
 そうかといって、実際に言葉を使う場面を設定し、使う形で覚えるようにするのがよいかというと、その場合は、俳優でもないのに架空の場面の中の人に自分がなるという不自然さに耐えなければならない。
 したがって、このような不自然さを避けようとして、学習材料は話し手のその場の感情がどうかをあまり考えなくともよいものを選ぶことになり、結果として、印刷された文章や、はじめから虚構として書かれた小説のようなものが材料となることが多いのである。
 音声重視、オーラル重視の外国語学習は、文法にこだわらず、短い言葉を暗誦しつつ記憶していくという、習うより慣れろ式のやり方であることが多く、一見学びやすい方法のように思える。しかし、その方法だと文法を追求しないために丸暗記が強いられ、その上に感情の伴わない言葉を繰返し口にしなければならない。この二重の労苦のために、困難はいっそう大きいと考えるのが自然だろう。
 学校の外国語教育というのは、読めるが話せないと批判されることが多い。事実は一面そのとおりであるが、話せるようにならないのにはそれなりの理由があり、かならずしも教える側の努力不足ということではない。
 外国語を学ぶからには話せるようになりたいと願うのは当然のことだが、ただ欲張るばかりでは、望んだ結果が得られずに終る可能性が大である。どのあたりの到達点を目指せばよいのかを、現実の条件に照らして冷静に見極めて学習に臨むことが必要である。