Professors' Column
教員コラム

16.中野聡子(経済学科): ヘボンとプリンストン大学

経済学科教授 中野 聡子

 明治学院大学の桜田通り沿いの交差点からは、芝生の向こうにチャペルと記念館が見える。この風景は、都心の狭いキャンパスにありながら、あたかもアメリカ東部のアビーリーグの大学のキャンパスの一角かと見まごうものがある。特に、私にとっては、2001年に滞在したニュージャージーのプリンストン大学を彷彿させる。プリンストンのキャンパスは、ニューヨークから通勤圏内にあるが、鹿とカルガモの現れる森と湖の合間に、古い建築物と現代建築物を融合させていた。当時、ニューヨークの空港から直行した車の窓から、『ビューティフル・マインド』(ノーベル経済学賞を受賞した数学者J.ナッシュの狂気の世界を描いたもの)の映画のクルーが、キャンパスで撮影しているのが見えた。その数日後、オフキャンパスのナッソーストリートのカフェで本を読んでいて、ふと顔をあげると、横の席で実物のナッシュがコーヒーを飲みながら考えごとをしているのに驚いた。プリンストンに来たのだな~と実感した。私の個人的な体験のなかで、明治学院の風景はプリンストン大学につながっている。しかし、実は、明治学院とプリンストン大学は、深いところでつながっている。

 今年、明治学院は、150周年を迎える。そのはじまりは、J.C.ヘボンが、ニューヨークで開業した病院を閉ざし、1859年、北アメリカ長老派教会の宣教医として、開国間もない日本を訪れ、神奈川施療所を設けて医療活動を開始したことに端を発する。そして1863年、横浜に男女共学のヘボン塾を開設した。ヘボンがもたらしたものは、医療と教育であったが、とりわけ、日本ではじめて直接日本語と英語を対応させた和英辞典『和英語林集成』を出版したこと、旧約・新約聖書の翻訳を行ったことが知られている。ヘボンは、眼科医であったが、あらゆる種類の病人を診療し、その診療のなかでひろう日本語を丹念に英語に対応させて辞書を完成させた。この時期、福沢諭吉が咸臨丸に乗ってアメリカでウエブスターの辞書を購入して来たのが英語教育の黎明であることを鑑みれば、ヘボンの辞書は画期的なものであった。ヘボンは、言葉を通じて、医療という実践を通じて、日本に欧米の息吹を吹き込んだ。

 ヘボンを日本へ駆り立てたものは何か?ヘボンは開業医としての才能もあったので、ニューヨークの小さな医院は大きな病院に発展し、広大な住宅や別荘を持つまでになっていたが、その私財を売却し、44歳で日本へ旅立った。おそらく、スコットランドから移住した先祖と信心深い家族の影響もあろう。父親はプリンストン大学出身の弁護士、弟もプリンストン大学出身の長老派の牧師である。思うに、ヘボンを駆り立てた精神は、ヘボンが1832年に卒業した長老派教会を有するプリンストン大学で培われたのではなかろうか。ヘボンは、アメリカで一番古い医学部を有するペンシルベニア大学で医学を学んでいるが、そこに入学する前に、プリンストン大学でラテン語、ギリシア語、ヘブライ語などの語学を中心に、幅広い教養教育を受けている。辞書の編纂や、聖書の翻訳を可能にしたものは、プリンストンでの教育であったと言われている。

 プリンストン大学は、独立戦争以前に創設され、スコットランドに発する長老派(Presbyterian )の指導者を教育するための大学を前身とする。プリンストン大学には、東部のアイビーリーグの大学に共通の、ニューイングランドの入植者たちの希望に満ちた開拓者精神とヨーロッパの伝統、すなわち信仰と自由と独立を尊重する精神的資質が宿っている。この精神的バックボーンをプリンストン大学に確立したのは、プリンストン大学第6代学長 J.ウィザースプーンである。近年、アメリカの独立宣言の思想的源流は、経済学を生み出したスミスやヒュームを含むスコットランド啓蒙思想にあることが指摘されている。そして、このスコットランド啓蒙思想のアメリカへの導入の一つの契機は、大学教育であった。特に、ウィザースプーンは、自ら独立宣言にニュージャージーを代表してサインした人物であるが、スコットランド啓蒙思想を基礎に大学改革を行った。ウィザースプーンは、スコットランド啓蒙の担い手として注目される「エディンバラの知識人」と同世代で、嘱望されてプリンストン大学の学長になるため、アメリカに渡った。自ら「道徳哲学」講義を担当するとともに、英語教育の強調とくに口頭表現を重視し、スコットランドの大学改革にそったカリキュラムを導入した。その結果、アメリカの独立期にあって、プリンストン大学は、聖職者とともに法律家、政治家、実業家、医師といった有力な指導的人物を輩出し、アメリカの市民的道徳をそなえた専門的職業人,有識市民のための教育機関となった。プリンストンの街は、独立戦争の戦場にもなり、プリンストン大学の象徴であるナッソーホールは、戦時病院となり、また一時的に大陸議会の国会の議場となり、そして2年間にわたるアメリカ独立戦争をたえぬき、現在も残っている。植民地アメリカが本国イギリスとの戦争を経て、独立と自由を確立する精神が、プリンストン大学を通じてヘボンに培われたのであろう。欧米列強の帝国主義にとりかこまれたアジアの小国日本に、独立と自由の精神をもたらすミッションを胸にヘボンは日本を訪れたのだと思う。

 ウィザースプーンの名は、プリンストンの街の通りの名前になっており、そこにアメリカ特有の酸味のきいた、ハーブなどを練りこんだ非常においしいパン屋があったので、パン屋の代名詞のようになっていた。明治学院の芝生の脇で、チャペルを描くため、多くの絵の愛好家たちが、デッサンに励む。そして、私は、現在明治学院大学で経済学史と経済思想史の講義を担当している。スコットランド啓蒙思想も講義のなかに登場する。明治学院の正門を抜け、チャペルと記念館の間の道を歩きながら、ときおりプリンストンの風が吹き抜けるのを感じる。